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第5回 坂口力さん
インタビュー

インタ ビュー第5回
坂口力さん【Chikara Sakaguchi】 元厚生労働大臣

1934年、三重県生まれ。
三重大学医学部卒業。
三重県赤十字血液センター所長として、献血事業に尽力。
72年、衆議院議員初当選。
2000年12月に厚生大臣、労働大臣に就任し、安全な血液製剤の安定供給の確保等に法律(血液新法)の成立や薬害ヤコブ、ハンセン病訴訟等の解決に尽力。
厚生労働大臣としては歴代最長となる3年10ヶ月の任期を務めた。
2005年最初のインタビューは前厚生労働大臣坂口力先生です。
坂口先生は、医師時代から献血事業に取り組み、また大臣時代にはHIV訴訟原告団との厚生労働大臣定期協議や薬害エイズ訴訟和解成立記念集会に出席いただくなど、はばたき福祉事業団とも非常に密接に関わってこられました。
国会会期中でお忙しいところを、議員会館にお邪魔してお話を伺いました。
はじめに3年10ヶ月に及ぶ厚生労働大臣時代を振り返っていただきました。
大臣としての3年10ヶ月を振り返って
今までの大臣の任期としては、最長不倒距離だったわけですが、さまざまなことがありました。

厚生労働省というのは間口の非常に広い役所なので、どのこともみんな国民の皆様方の生活に影響するといいますか、関係のあることなんですね。

だから、マスコミに載らない日はない、というくらいで。

それも叩かれるわけですから、新聞をそーっと、恐々開けないければならないことが再三あって(笑)、緊張した3年10ヶ月でした。

人間の病気に関する大きな出来事がいくつかありました。

ハンセン病に始まり、在外被爆者の問題、ヤコブ病、そしてBSE、SARS、C型肝炎、その間にHIVの話もございましたし、疾病に関することだけでもいくつも問題がありました。

しかも裁判が絡んでいる問題がほとんどで、それらを一つ一つ解決していくというのは、なかなか難しいことでした。

そのほかにも過労死の問題がありましたしねぇ。
人間の体、生命に関わる話が非常に多かったですね。

完璧とはいきませんけども、一つ一つかなり前進させたと自分では思っています。

---その中でもハンセン病の解決は歴史的に大きな出来事だったと思いますが

ハンセン病の問題というのは長い歴史を引きずった話ですから、非常に大きな闘いだったと思います。
役所のほうは、控訴で固まっていましたから。

それは厚生労働省の中が固まっていただけでなく、法務省も、官邸の官僚組織も、すべてが控訴で固まっていました。
なにか渦を巻いて動いているといいますか、官僚組織が一つにまとまって動くというのはこれほど怖いことなのかと、官僚組織が集団的に動く怖さというのを初めて肌身に感じましたね。

それはダメだと、それに立ち向かうのはかなりの勇気がいることでした。

戦後プロミンという薬ができ、昭和30年代にはさらに新しい抗生物質も登場し、少なくとも昭和34,5年頃というのは、ハンセン病は完璧に治る病気だったわけです。

それで、昭和33年に世界中の医療者が集まって、「らい学会」という学会が日本で開かれたんです。

その学会で、療養所に隔離しておくことは間違いである、各国の政府に対して隔離政策をやめるように決議されたんです。
その学会に厚生省の役人も出席し、研究発表しているにもかかわらず、そのことが国民に伝えられなかった。
その「らい学会」すら、自分たちがそういう決議をしたことをオープンにしなかった。

だから医学界の責任も大きかったと私は思う。
だから、これはいってみれば半分は医者の責任だと。

医者である私が厚生大臣に立ったときには、その償いはぜひしなければならないという気持ちが、私には強かったですね。

---原告勝訴から控訴断念までの政治的決着について

小泉総理に「ぜひ患者さんに会ってほしい」ということを話したところ、「坂口さん、俺が会うのは最後だ。君が先に会ってくれ」と。
「私は当然会いますけれども、総理も会ってくれますか?」というと、「最後に会う」とこう言ったんです。
それで、私が会った後、その感想として控訴は断念すべきです、患者さんにぜひ会ってくださいと総理に言ったんですけど、だんだん会う日があとにずれ込んでいきました。

そして今日決めなければいけないという5月23日の朝、福田官房長官が総理官邸に私と法務大臣を呼びまして、「それぞれご意見をもう一度言ってください。坂口さんはどうですか?」。私は「控訴は断念すべきである」と言いました。
「それは坂口さんの意見ですか、それとも厚生労働省の意見ですか?」と福田さんは言いました。
「うちの役人諸君は反対の立場です。だけど、役人の言うことが厚生労働省の意見ということではない。私の意見だけが厚生労働省の意見ということもありえないかもしれない。しかし私は大臣を引き受けている以上、全体の責任を背負わなければいけない。私の立場で言えば反対です」とこう申し上げました。

次に法務大臣が「原告団の皆様方、患者の皆様方にお会いして、皆様の気持ちは痛いほどわかった。何とかしてあげなければいけないと思う。しかし、法務省としての立場で言うと控訴せざるを得ないという結論になった」。

法務大臣も、個人としてはここで決着をつけてあげたいという気持ちは持っている。

だけども、法務省の立場で言えば控訴せざるを得ないと。僕はそこで福田さんがどちらかに決めるんだと思ったんですが、「申し訳ないけども夕方まで待ってくれ、夕方にもう一度お会いしたい」ということになりました。

その間に、総理が15分間という予定で患者さんに会ったんですが、実際は15分が45分になったんです。

私は、午後から厚生労働委員会があったんですが、野党から次から次へと質問がくる。
それはもうハンセン病の話ばっかりですよ。

ハンセン病の議論をやっていたわけではないんですけど、他の話はほったらかしでハンセン病の話ばっかりです。

そこで「坂口さん、どうするんだ」とだんだん詰め寄られてきたわけですよ。
総理の決断で決まるのに、自分が先に言うことはできないので、結論は言わずにいたんですけど、控訴は断念しますといわんばかりのところまで答弁しているんです。
そこまで言ってしまったんですね。しかし、これで総理がもし控訴すると言ったら、自分は厚生労働大臣をやっているわけにはいかない、そのときには潔く辞表を出そうと思っていました。
覚悟を決めてやっていたんです。

5時に委員会が終わり、官邸に行くと、福田さんから「すぐ総理のところに行こう」と言われまして。
「総理のところに行くって、どうなんですか」と聞いたら、「坂口さん、いいから心配するな、行こう」。「心配するなといわれたって、結論は総理に聞かなければ分からないですから」と言ったら、私のすそを引っ張って、部屋の隅に連れて行かれまして、「坂口さん、大丈夫。あなたの言うとおりになるから、心配するな」と。
そんな一幕がありました。

あとで聞いた話なんですけども、総理が官僚に、控訴する、控訴しないのそれぞれの理由をまとめた書類を両方書いてこいと言ったんだそうです。
そうしたら「控訴すべし」というのが4,5センチの厚さで、「控訴断念」のほうは2,3枚のペーパーしかなかったそうですから、それだけ控訴するということで官僚は決意をしていたということです。

だけどよく小泉さんがそこで控訴断念を決意したと僕は思うんですよ。
よくぞ決意したと思います。

その直前に、患者の皆様方と45分間会ったことが大きく影響したと思います。

それと後日談ですけども、その日の毎日新聞朝刊に、「坂口大臣、辞任か」というのが1面のど真ん中に出たんですよ。
僕はそんなこと言ってないし、腹の中に収めていただけの話ですし、どこで誰が言ったのわからないですけども。
見た本人がびっくりしたわけですから。
「あれ、俺、辞めなきゃならねぇ」(笑)って。
それも総理に堪えたという話ですね。
 

三重県赤十字血液センターでの献血と血液事業のかかわり

三重大学大学院医学研究科を修了後、しばらくしてから三重県赤十字血液センターに勤務することになった坂口先生。
そこで日本の献血事業の実態を知り、改革に乗り出すことに。
三重から始まったこの新しい献血方法は、のちに全国のモデルとなり、献血の普及に大きく寄与することになりました。
しかし、スタート当初は多くの壁が立ちはだかりました。

---血液センター所長時代の献血の状況について

私が関っていた頃は輸血した人の50%が輸血後肝炎にかかっていました。
それを献血に切り替えても、なかなか30%以下にはならなかった。
どうすればもっと落とすことができるのか、どうすればいい血液が集められるかということで、みんなが真剣な議論をし、努力しました。

その頃は「売血から献血へ」という時期だったんですが、なかなか本当の献血には至らなかったですね。
その間に預血制度というのができたんです。

預血制度といいますのは、たとえば病院で今度手術するのに10人分の血液が必要だとなると、その患者が身内や知り合いの人にお願いして、10人の人を連れてきて献血してもらうという制度なんです。
それだと、手術を受ける人が献血をお願いするので、確実に人は集まるんですよ。

ところがこれをやりますと、親戚縁者の人は行かざるを得ないんですね、義理がありますから。
私も最初、あなたは血液が薄いからダメといって断ったら、その方が「嫁いだ先のお父さんが手術をするんだから、薄かろうと何だろうと血液を出さないわけにはいかない」と泣いて頼まれたことがあるんです。

血液が薄かろうが、過去に肝臓を患ったことがあろうが、嘘を言ってでも自分の義理を果たしたいという人たちに頼った制度なんです。
よその血液センターはそんなことばかりやっていました。
ここを変えないといけないということで、私は献血をしてもらった人の血液を、献血に使うための検査だけではなく、現在やっているコレステロールなどの検査をして、献血者にその検査内容をお返しする、「簡易血液ドック」のような形で献血者を募ったら良いのではないかと思い、その提案をし、三重県赤十字血液センターで始めたんです。

でも、献血者のための検査に使う金はないと、日赤本社からは叱られるし、厚生省からは余計なことをするなといわれるし。
日赤本社や厚生省とケンカしながらやっていました。

それが僕のやった献血問題の一番の中心なんです。
あとになって、これはいいことだから全国のセンターでやろうということになり、それが今売り物になっている。

でも、ここまでくるのに大変だったんですから。

はじめの頃は、日赤は検査だけして、それを献血者に報告をしないんです。
検査だけして報告しないって、いったい何のためにやっているんですかと。
検査を始めてから報告するようになるまでに5,6年かかりました。

僕が血液センターを辞めて、国会議員になったあと、三重県の血液センターに、もう報告しなくていい、聞いてきたら報告しろという通知が来て、みんな悩みまして。
何のために検査をしてるんだと。

そんなことでいい血液が集まるのかと。

検査が良かった人は、自信を持ってまた献血をしようという気持ちになってくれるし、悪ければもうやめるし。
いい人は常にやるよという気持ちになってくれるわけですから。

日赤と厚生省と、大ゲンカをしながら三重県で仕事をしていました。

その当時の三重県の事務局長が、「坂口さん、いいと思うことは少々金がかかろうとやってくれ。 すべて私が責任を持つから」と言ってくれたので僕もできたんですよ。
あの人がそういってくれなかったら僕もできなかったでしょうね。

しかも、当時三重県の血液センターには5000万円の借金がありました。

その借金を返済しながら、新しい制度を導入していくということで、両方同時にやらなければいけなかったですから、それはきつかった。

昼夜いとわず、土曜も日曜もなく、1年間働き続けるという日々でした。

職員には本当に迷惑をかけたと思ってます。
その当時私についてきてくれた職員には本当に感謝しています。

---当時と比較して、今の状況はどう思いますか


そのことを思いますと、今は検査が徹底されましたね。
世界に先駆けてNAT検査が導入されましたが、これがすごかった。

発生するのはまれなケースです。

輸血後肝炎が50%発生していた当時と比較をすれば、それは大変なこと。

私が作った制度を導入して、10%くらいまでは下がったと思いますけども、なかなかそれよりも下がらない。

そのあとC型肝炎のウイルスが発見され、検査方法が確立、導入され、さらにNAT検査が導入され、どんどん良くなりました。
そういう意味では、最近の日赤は良くやっていると思いますよ。

それだけでなくて、新しい問題が次々に出てきますから、いろいろなものを導入していかなければいけない。

最近の日赤は、みんなが必死になってやろうとしていて、急速に良くなっていますね。

自分たちがやるべきことは何かということをあらためて問い直したこと、熱心な人が日赤に入ったことが大きいと思います。
それが良くなってきた要因だと思います。

---血液新法の制定について

私が献血に関わっていた頃は閣議決定で、法律がまだない頃でした。

法律のない仕事をこれだけ全国的な規模でやっているのは珍しいこと。
法律がないということは予算がつかないんですよ。

だから苦しいわけですね。

だけど1本の血液が必要となれば、血液センターはそのために走り回らなければならないわけですよ。

しかし、法律をきちんと作ってスタートしましたから、これからは財政的な支援もできると思いますし、やる者の士気にも影響すると思います。
やっている者は、国がしっかりバックアップしてくれているということがないとつらいですから。

法律を作ろうという動きは早くからあったんですが、日赤と厚生省と患者団体の意見が合わないわけですよ。
それぞれの意見が違いますから。

だから厚生省も、意見が合わなければ無理してやらなくてもいいよ、というふうになっていったと僕は思いました。
だけど、患者団体をまとめていただき、そして私が厚生労働省と政府との意見を一致させ、日赤を説得し、厚生労働省の医薬局長が非常に熱心に取り組んでくれて、それでまとまったと思いますね。

---今後の血液事業について


今後は輸血ということによって受ける、人間の生体側の影響がさらに詳しく研究されると思います。
そうしますと、さらにいろいろな検査をし、そして害を出さないものに作り上げていくということになり、日赤で造られる保存血液がさらに安全なものになっていくだろうと思っています。

ですから、日赤がやらなければならない仕事は非常に増えていきますし、大変な作業になると思いますが、それによって人を救うわけですから、頑張ってほしいと思います。
 
---医師、日赤血液センター所長として血液について関ってこられましたが、薬害エイズのことについてどう思われますか。

薬害エイズのときに僕は言ったんですけども、国内でそういう病気が感染するという事実が判明したら、それはどこから来たかということを調べなければならない。

そのときに一番気をつけることは血液だということはですね、医学的常識ではなかったかと。

だから、輸血をした血液の中に、菌なりウイルスなりが入っているのではないかということをまず疑うのが医者として当然のことではないかと国会で質問をしているんです。
血液のことをやっていた、それだけに関心も高かったですし、何とかしたいという思いも強くありました。

---厚生労働大臣協議の中で、薬害エイズ被害者の生の声を聞いてどう思いましたか。

少なくとも年1回はお会いさせていただいておりました。
それから他の協議のときにも出席をさせていただき、皆様のお声を聞かせていただくことを心がけてきたつもりです。

患者の皆様の生の声を聞かないと、行政には反映されないと思っておりましたから。
皆様からすれば十分ではなかったかもしれませんけれども、ある程度前進させることができたと思います。

厚生労働省の中で私がいつも言っておりましたのは、それぞれの立場の意見を聞いて仕事をするのと聞かないでするのとでは、それは大変な違いがある。
聞いても、それはできないかもしれない。

たとえできないことがあったとしても、その人の意見を聞いて行うことは大きな違いがあるとみんなに言ってきました。

厚生労働省というのは、国民と密接な関係にあるわけですから、できるだけ意見は聞くことは大事だと思います。

「タケノコ医者」の素顔
「藪医者に至らない医者のことをタケノコ医者という。」(「タケノコ医者―差別なき医療を目指して―」光文社刊より)。
自らを「タケノコ医者」と称する坂口先生。
日赤や厚生労働省に対しても自らの信念を貫き通す「タケノコ医者」の原点とその素顔に迫ります。

---小さい頃はどんな子どもだったのですか。

ひ弱で、泣き虫な子どもでした。
僕が小学生の頃は、第二次世界大戦中だったので、小学校3年生くらいからゲートルを足に巻き、木銃をかつがされて、ものすごい距離を行軍させられました。
他に突きの稽古などもさせられました。
そうした中で弱さがだんだんなくなっていきました。

私が生まれたところは100戸くらいの小さな村で、本当に山の中でした。

生家は私の著書「タケノコ医者」の表紙の写真のように藁葺き屋根の家でした。
同級生は15,6人しかいなかったんですが、それでも村始まって以来の一番の多さでした。

学校の授業は2学年が一緒に勉強する複式授業。

そういうところで勉強していたわけですから、授業も遅れていきまして、中学校に入ってからも、英語の授業は3年間で1年生の教科書の半分がようやく終わったくらい。
だから高校に入ったときなんて本当に遅れていたんですよ。

落ちこぼれだったんですよ、僕は。

そういう生徒ばかりの、いってみれば落ちこぼれクラスを1クラス作ってもらい、そこで英語や数学の特訓を受けました。
 

そういう環境と時代の中で、「負けてたまるか。よし、今に見ておれ」という“負けじ魂”が養われました。
三重県赤十字血液センターに入社したときも、日赤や厚生省がなんと言おうと、思い切ってやりたい、そんなこと知ったことかと。
向こう見ずといえば向こう見ずですね。あんなことよくやったなぁと今は思いますけど。

---ご自身のことについて

尊敬する人は、森鴎外やシュバイツァー。
医療の世界を生きてきただけに、それに関る人になりますね。

座右の銘は「先憂後楽」。

政治家として憂いは国民よりも先に憂わなければいけない、楽しいことは国民よりも後で楽しまなければならない、という意味に解釈して、好きな言葉にしています。

趣味はカメラで、若い頃は「自然」をテーマによく撮っていました。
自然のいい写真を撮ろうと思うと、天候とか自然条件が関係するので、時間がないとできないですね。

今はそんなこと、全然できない。

あと、文章を書くのも好きで、小説家になろうと思ったこともありました。

大臣のときは運動不足とストレス過剰の両方ありましたから、健康管理はたいへんでした。
健康管理とは食生活だと僕は思っています。
運動といってもそんなにできるわけじゃないですから。
エレベーターを使わずに階段を歩くとか、それだけでも全然違いますから。

そして、食べ物を食べ過ぎない、飲みすぎない。
この2つを守れば大丈夫と思いますが、食べ過ぎないというのが一番難しい。

お菓子があるとすぐ手が出るんです。
甘いものが好きですね。どうしても食べたい。

誰か見ていると食べないんですけど、1人になるとつい食べてしまうんですよ(笑)。

坂口先生は1時間以上にわたって、じつに気さくに話をしてくれました。
「新幹線の中で声をかけられたり、携帯電話を向けられて写真を撮らせてくださいとか色紙を書いてくださいとか言われたり。大臣を辞めてからの方がいろいろと大変です」と、ちょっと戸惑ったように笑っていましたが、きっと多くの人がマスコミを通じて伝わってくる気さくで、親しみやすい雰囲気を感じているのだと思います。
3年10ヶ月におよぶ大臣時代の重大な責任と過剰なストレスは相当なものだったと思いますが、その中でいつも政治家として誠実にふるまう姿を私たちは見てきました。
坂口先生には、今後も医療、福祉、介護等、多くの場面でご活躍していただきたいと思います。

著書のご紹介
今回のインタビューはいかがでしたか?

このインタビューを読んでくださった多くの方に、坂口先生の人間味あふれるお人柄が伝わったかと思います。

さて、ここで坂口先生のことをもっと知りたい方のために、坂口先生の著書をご紹介いたします。
まず1冊目はこのインタビューでも引用させていただいた
「タケノコ医者―差別なき医療を目指して―」。
本書は坂口先生の生い立ちから、僻地医療に携わった医師時代、そして政治家としての闘いなど、坂口先生の人生の軌跡を綴ったものです。

2冊目の「タケノコ大臣奮戦記―温かい心を持った厚生労働政策を求めて」は、3年10ヶ月に及ぶ厚生労働大臣時代の記録をまとめたもので、同時にその体験から日本の厚生労働行政への提言を述べられています。

ぜひ、ご一読ください。

タケノコ医者
~差別なき医療を目指して~

価格:1,575円 光文社刊

タケノコ大臣奮戦記
~温かい心を持った厚生労働政策を求めて

価格:1,365円  中央公論社刊

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