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第3回 伊能洋さん
インタビュー

インタ ビュー第3回 
伊能洋 さん【Inoh Hiroshi】 画家

伊能洋(いのう・ひろし)。
1934年、東京生まれ。
画家。

伊能忠敬から数えて7代目の子孫。
戦時中、実家の千葉県佐原市に疎開していた頃は、忠敬が実際に使った測量器具で遊んでいたそうです。
3回目のインタビューは、画家の伊能洋さん。
今回は、伊能先生のアトリエに伺ってインタビューを行いました。
伊能大図が里帰り ~作者の伊能忠敬とは~
今からおよそ200年前、55歳の伊能忠敬は、測量のために日本全国をひたすら歩き続け、17年かけて地図を完成させた。
「人生50年」といわれた時代に、55歳からはじめた大事業。
日本で初めての大日本沿海実測全図の写しが2001年にアメリカで見つかった。
 
214枚の伊能大図
「アメリカで見つかった伊能大図は、伊能忠敬研究会代表理事の渡辺一郎さんという方が見つけたんです。『アメリカ大図里帰り展』では、博物館展では本物の地図を、フロア展ではコピーに着色したものを原本と同じ大きさで展示しています。なぜアメリカの議会図書館で見つかったのかは、いまだに謎。浮世絵などといっしょにアメリカに流れたんじゃないかといわれていますが、正確にはわからないんです。釧路で開催した展覧会には、日本で初めて、大図214枚を並べたんです。面積は30M×60M。だいたいアイスホッケーのリンクと同じ大きさ。214枚をきちんと並べるだけでもたいへんな作業なんですよ。忠敬本人をはじめ、将軍でさえ全体図はみたことがなかったんです」

伊能さんと妻の陽子さん(左)
伊能忠敬の人物像
「伊能家はもともと大和の国の出で、元は侍でした。下総に移って、最初は大栄町伊能というところに住み、それから佐原に落ち着きました。忠敬は10代目に当たりますが、18歳で婿養子に入りました。忠敬の生家は九十九里の網元でしたが、7歳の時に母を亡くしたこともあり、少年時代の記録というものはないので、ドラマなどでは貧乏で不遇な少年として描かれることが多いのですが、実際にはそんなことはなかったと思いますよ。伊能家に入ってからは、豊富な蔵書にも恵まれて、天文学や数学など独学で勉強していたようです。和数字の対数表が残っていてびっくりしました」

「伊能家は代々佐原村の名主を務めた由緒ある家柄で、酒造りを中心に、米、材木、油などの商売をやっていました。忠敬は名主、村方後見として村政に尽くしましたが、商売人としても非常に有能な人だったと思います。多少天文や暦の勉強もしているので、気象の予想が出来るわけ。米の出来具合とか、今年の冬は江戸で大火が多いだろうとか。そこで早めに材木の手配をするとか、不作であれば関西のお米を買い付けて江戸で売るとか、幅広い視野で商売をやっていたんですね」

「忠敬は、先を見通す目の持ち主というか、合理性があった人のようです。一番いい例は飢饉の処置の例。打ちこわしがあったときに、お金持ちは打ちこわしが怖いから侍を雇ったんだけど、彼の場合はそうではなくて、侍を雇うお金があるなら、今飢えている人にそれをまわそうと。困っている人が誰もいなければ打ちこわしなんてするわけないんだから。そこで、まずは村の人たちが食べられるようにしようということで、有力者に声をかけて蔵を開いて炊き出しをやったんですね。名主としても非常に信頼されていました。佐原村は利根川の近くにあるので、毎年のように洪水があるわけ。それで堤防を直したり、流された田畑を直すのにも村の人は積極的に働いてくれました」

55歳から大事業 ~現代人から注目される忠敬の生き方~
測量始まる
「最初は6人でスタートしました。その後少しずつ増えていって、最後は大幅に増えたそうです。でも、最初は幕府が忠敬の腕前を全然信用しないわけです。費用も最初はほとんど自費ではじめたんです。測量器具も江戸の時計師・大野弥五郎親子に依頼して全部作らせた。ずいぶんお金がかかったと思います。最初の測量のとき、幕府からはそれでも少しお手当てが出たんですが、全然足りなくて、とりあえず100両をもっていったんです。今のお金で1000万円ほど。それでも戻ったらいくらも残らなかった。彼は50歳で自分の店を子どもに譲って隠居したんですが、その時点でどれくらいの財産があったと思いますか? 今のお金に換算すると、ざっと45億円くらいと言われています。

伊能さんに見せていただいた貴重な資料、「御証文写3通」。
忠敬が測量を行う際に差し支えがないようにと、勘定方から測量に行く先々に出されたもの。
第5次測量からは幕府の公式事業になり、待遇も良くなりました。幕府から全国にお触れが出されて、村の名主さんが羽織袴で村境まで出迎えてくれて、測量も村総出で協力してくれたり。忠敬はもともと慢性気管支炎を患っていたんです。60歳を過ぎた頃、九州を測量しているときに、体の具合がだいぶ悪くなったんですが、行く先々の藩の殿様が医者を呼んでくれて。九州の殿様たちは新しいことに興味をもっていて、とても大事にしてくれたそうです。だからその後何年も全国をまわることができたんでしょうね。

お上の仕事をしたということで、一族の人たちみんなが忠敬のことを尊敬していたんです。忠敬は『タダタカ』と読むのが正しいのですが、伊能家では敬意を込めて、『チュウケイ先生』と呼んでいます。『タダタカ』って言い難いですしね(笑)。佐原の人たちもみんな『チュウケイ先生』と呼んでいますよ」

伊能家を伝えた女性たち
 
「近くの小学校の先生が、社会科で教えるのに何か資料はないですかと尋ねてこられて、こんなものがありますが・・・とお見せしたら、その先生に『こんな大事なものを・・・』といわれて。それで、妻はあわてて古文書講座に参加して、当時の資料を読めるようにと勉強を始めたんです。

私たち男性は生まれたときから『伊能』で、しかもまわりに地図や測量器具があるわけじゃないですか。だから、特別な感慨はまったくないわけですよ。伊能家に嫁に来たかみさんや母親なんかのほうが、これはたいへんだ、こんなにすごいんだと思うわけ。だから、伊能家の資料を代々守って伝えてきたのは女性たちなんです」

今、忠敬が注目されていることについて
「今は伊能忠敬が社会現象になってしまって。その原因となったのは、井上ひさしさんの『4千万歩の男忠敬の生き方』という本のなかにでてくる、『人生二山説』。今のサラリーマンにとって、前半の人生と後半の人生、それぞれを全うした忠敬は、良い見本なんだと思うんです。50歳で隠居して、55歳で新しい仕事を初めて、17年かけて全国の測量を終わらせた。でも、井上ひさしさんが言われたのは、前半の人生と後半の人生は全然別のものではなく、前半の人生に種を蒔いたものが、後半の人生に役に立つんだということ。50歳で隠居して、天文学や測量の勉強を始めたわけではないんです。若い頃から、伊能家の蔵書でずっと勉強していたんですよ。それが55歳になったときに、全部実を結んだと。今のサラリーマンの人も、仕事をやめて、急に新しいものを始めたって上手くいきませんよ。やっぱりサラリーマンの間に自分のやりたいことを探して、定年になったらそれを土台にして本当にやりたいことがやれるんだよと、たぶんそういうことだろうと思います」

 

伊能図の世界 あるく はかる つくる ~伊能忠敬の日本図展~

伊能図のすべてが展示される伊能忠敬の日本図展が、平成16年年12月6日(月)~23日(木・祭日)、日本大学文理学部で開催されます。
この日本図展では、伊能大図のほかに、中図、小図、特殊図(江戸図)も展示されます。
このインタビューをお読みになって、伊能図に興味を持たれた方も多いと思います。
「里帰り」した伊能大図を見ることができる絶好の機会ですので、ぜひ訪れてみてはいかがでしょうか。

期間:平成16年12月6日(月)~23日(木・祭日) 10時~17時
    ※ただし、6日(月)は13時~17時、13日(月)は休館日、23日(木)は16時までです。
会場:日本大学文理学部百周年記念館・図書館
    東京都世田谷区桜上水3-25-40
    最寄り駅/京王線下高井戸駅、桜上水駅下車、徒歩10分
入場料:無料

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